⇒ 保管No-052 bakuのブログ 旅の道草(0020) 金沢兼六園・霞ヶ池~ (ameblo 2015.11.31 掲載) 兼六園(2)(時間を少し戻り、秋の霞が池の旅) 前回の瓢池・閑寂の森の記事は、ほぼリアルタイムでしたが月日は進み早12月、書いている本人も季節感のズレはどうしたものかと思いつつ、如何せん気儘な小生と自嘲しつつ、マイペースを決め込んで書き進めるしかございません。 虹橋付近から、霞ヶ池に“ことじ灯篭”を入れて撮りました。 何でも琴の音の高低を調整する琴柱(ことじ)に似ているところか、そう呼ばれているそうです。 手前にある虹橋を入れて撮るのが定番らしいのですが、その橋は人の往来が絶えず、背景が映りにくいためこの位置にしてみました。 時に擬人化して物を見てしまう自分がいて、立ち続けるその姿がもしわが身に自由が無かったらと例えれば、こうしてたまに旅に出て、気儘に暮らせているだけで有り難いとそう思うのです。 また写真とは不思議なもので、人通りの途切れた景色が旨くフレームに収まると、自分だけがそこに居たような錯覚を起こしてしまいます(笑) と言うより、撮りたいものを映しのだから、その世界感だけが残るのがむしろ当然かも知れません。 僕は、小さく、来て良かった! そう感じました。 よくも壮大なスケールの庭園を後世に残してくれたものだと。 人の世に暮らし難さは有っても、また楽ではな事の方が多いいけれど、日々有ってこそ “いいね” とに喜べる時はあるもだと。 僕の人生訓は ”人間万事塞翁が馬” だけど、喉元過ぎれば熱さを忘れる… 大事なことを忘れては思い出しを繰り返すのも、忘れっぽい僕の場合、旅が有ってこそのなのかも知れない…… だから、旅に感謝、ただ感謝するばかりなり…です。 ちょっと、こじつけかな(笑) 虹橋を入れて撮ってみましたが、記念写真スポットのようで人の往来の途切れが全く有りませでした。 手前は園内を流れる曲水の終点で、この虹橋を潜り先の霞ヶ池に注がれていました。 その手間に、金沢城二の丸の防火用水となる(現在は使用されていない)取水口が残されており、道を横断する水道石棺と思われるものも見ることが出来ました。 また園内の曲水は、約10キロ先の犀川から取水される辰巳用水から引かれているそうです。 眺望台から左写真に、東山(東茶屋街と卯辰山)から金沢の街が広がります。 右写真に、遠く望めるのが白山山系だそうです。 左写真のもっと先には内灘砂丘も見えるそうですが、私は気が付きませんでした(トホホ…) そのまま目を園内に転じれば、手前に園内の清き流れの曲水があり、その先に霞ヶ池が広がり、周りの手入れの行き届いた樹木配置の向こうには、庭園の森がどこまでも深く続くように感じさせます。 人の集まりもこの眺望台付近が一番多かったかな。 形の良い松の中に、作業中の庭師が二人隠れています。右写真が通行不可の雁行橋です。 眺望台から続く外側の動線を進むと、巨大なアカマツがありました。 よくも育てたり、いや育ったり。 側にいる人と比べるとその大きさに圧倒されますね。 西南戦争慰霊の明治紀念之標。遠くからでもかなり目立ちます。 銅像は倭建尊(日本武尊)明治10年西南戦争で戦没した郷土兵士を祭った記念碑であると書かれておりました。 また倭建尊のとの関係は、熊襲征伐と薩軍との戦いをかけて鎮魂を顕すという説が有るそうです。 園内休憩どころの一つ、時雨亭です。 お茶とお菓子のセットで休憩できます。また1室貸席も扱うそうです。 僕は畏まれないのでパスしちゃいました。 というより、一人の時は結構ケチ旅になります。 (…たく! やれやれな、お客さんだ!!…笑) これは、霞ヶ池の内橋亭だったかな。 七福神山も庭師の作業中でしたが、全体の形がとても良かったです。 鶺鴒島と花見橋です。 この後兼六園を後にして、東尋坊・長町(武家屋敷群)と、 前田利家公とお松の方をお祭りする尾山神社へ寄りました。 どこか竜宮門を連想させるような尾山神社の神門ですが、三層目の四面にはめ込まれたギヤマンのステンドグラスが、西日を透かして圧巻の輝きを放っておりました。 その美しさが、写真に反映されていないのが残念です。 撮った時は “やった” と思ったのですが……(泣) 尾山神社の創建は明治6年だそうで、3層目に灯された明かりが金沢の街に浮かび、遠くは海上航路の道標とされていたそうです。 いやー想像するだけで、いい感じになってしまいました……(笑) では、今回はここまで、 お付き合い有難う御座いました。 ページトップへ ⇒ |