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保管No-097

              bakuのブログ ある日の風景(015)
月山冨田城と山中鹿之助像(2016.初夏)              (ameblo 2017.06.17 掲載)
2017.06.17掲載

2016年の初夏。月山富田城へ

   
小雨が降ったり止んだりでした。
市立病院バス停から飯梨川に架かる新宮橋に差し掛かると、対岸右手に月山富田城趾らしき丘陵と安来市立歴史資料館が見えて来ます。
資料館で道を尋ねたら、本丸跡は整備中で途中の山中御殿までは行けるけど、本丸の石垣が見えるかどうかは保証できないと言われました。

   
でも、山中鹿之助幸盛像なら別の道で行けば10分ほどで行けるそうです。
古地図には菅谷口の大手道・塩谷口の裏手道・御子守口の搦手道が有るようですが、泥濘に注意して、と教わった搦手らしき杣道を登る事にしました。
道を振り返ると、知らない山中を一人きりというのも心細くなりますが、旅の勢いでそのまま進んだんです。 今思うとこの深い山道……。堀尾忠氏は新城(松江城)の調査中に蛇に噛まれて亡くなっているし、またヤマカガシも毒蛇だと知っているので、勿論熊にも出会わなくてよかった。

   
曲輪跡になるのでしょうか、千畳敷という展望のよい場所に着きました。
それほど高い位置では有りませんが、眼下に飯梨川と対岸の街並みが見渡せます。
当時の飯梨川の流れは400Mほど町側にあったそうです。


   
奥に向かいもう一登りすると太鼓の壇があり、山中鹿之助の銅像とご対面です。

           
尼子家再興のため、“願わくば我に七難八苦を与え給え” と三日月に祈ったという山中鹿之助。三日月の前立と鹿の角の脇立ちの兜が印象的でした。

京極・尼子氏というと先ず佐々木道誉(京極高氏)を思い浮かべてしまいます。建武の新政・南北朝と足利(高氏)尊氏と命運を共にし、前政権の北条高時から一字を貰い同じ高氏という名であった縁によるものか、幾度か敵方になるも尊氏を助け、室町幕府の創建期に尽力した婆娑羅大名として以前からの魅力を感じていました。

件の山中鹿之助は月山富田城陥落後、新宮党粛正の難を逃れて東福寺の僧籍あった還俗後の尼子勝久を担ぎ、出雲で毛利氏と対峙し七難八苦の末に最後の望みをかけ、秀吉の下で上月城の守備を任され毛利勢と前線対峙したのです。
尼子と知るや意地となる毛利氏は六万の軍勢で城を包囲すると、秀吉方も信長に援軍要請するのですが、援軍自体が秀吉への対抗心なのか緩慢な動きをして、間の悪い事に三木城の別所長治が謀反を起こしたため前線放棄やむなしに追い込まれます。
これにより上月城は孤立無援となり、また秀吉は主従に脱出を命令したとされますがこれを受け入れず、結果尼子勝久は切腹、山中鹿之助は毛利輝元本陣連行中に暗殺されてしいます。

月山富田城・山中鹿之助徳盛像を前にして…

…願兜おつる涙か走り梅雨…
 天はこれまでに鹿之助に幾度かのチャンスを与えながら、何故かお家再興の大義 “願わくば我に七難八苦を与え給え” としてしか聞きいれなかった。何とも皮肉な事でしょう。小雨の止み間の鹿之助像に涙を見た様な…。

…叶わぬか願の雲居の蜘蛛の糸
 戦は人の命の奪い合い。せめて大義は世の中の安定するところに働きやすくなければ。蜘蛛の糸ほどの情けとは薄情なものなのかそれとも……。天上の眼に果たして鹿之助の願いはどう映ったのでしょう。



…夏草や手招くように故事のある…
 衣川の古戦場の夏草に芭蕉翁が見たものに倣うかのよう、鹿之助像は走り梅雨の夏草の中にひっそりと佇んでおりました。鹿之助の忠義。尼子氏と毛利氏の大儀。引いては信長・秀吉・家康の大儀。それぞれ私利私欲があっても、時代は犠牲を払いながらも体制の範囲を大きくしつつ世の安定するところ流れ着き。そして歴史は不当な外圧や世(体制)が腐れば、また何度でも戦を繰り返す含みを持つものなのでしょうか……。

私は山中鹿之助の様な人が好きです。人は生まれた環境の中で精一杯生きるしかないのですから…。
しかしこの先は平和こそ大儀として、脅しや戦ではなく知恵で乗り切る努力が出来るといいですね。



          ここで、ちょっとジジ放談…
       

       

花の壇で一休み

   
誰一人と出会うことも無く雨が強くなり、花の壇と呼ばれる復元された侍所で一休みです。

   
この衣装記憶があります。尼子経久役の緒方拳さんと吉川婦人役の高畑敦子さんだと思います。
大河ドラマ「毛利元就」で、
謀事多きは勝ち、少なきは負ける。戦いの世に生きる男の有様だ“ …孫氏の兵法にありそうですね。
後に謀聖と呼ばれる
経久を現す台詞で毛利元就は専ら苦しめられますが、経久の死後晴久と新宮党の国久を逆に謀略で分断し、国久・晴久亡き後嫡子義久を兵糧攻めでとうとう難攻不落と言われた月山富田城を手に入れてしまいます。

この時、毛利方の品川大膳と一騎打ちで有名となった山中鹿之助幸盛の試練は、ここから始まるのです……。

市立病院バス停まで戻る途中でした。丁度子供たちの下校時間だったのか、次から次に(✿✪‿✪。)ノコンチャ♡と挨拶をされまして……。こういう地域教育って何だかいいなぁーと思いました。勿論小生は照れずに皆さんにちゃんと、(✿✪‿✪。)ノコンチャ♡・コンニチワをしましたです(笑)

   
イエローバスで安来駅に。そしてコナンのラッピング電車で宿泊地の松江に戻ります。
今は月山富田城の本丸跡に行けるようになったらしいですね。由志園・足立記念館もよかった。今度は船で、後醍醐天皇所縁の隠岐の島にも渡りたいです。

  
宍道湖の夕照。出雲・松江の旅。忘れられない思い出になりました。


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