⇒ 保管No-058 bakuのブログ 旅の道草(0023) 京都(1)金地院と南禅寺 (ameblo 2016.01.29 掲載) (掲載日:2016.01.28) 宿泊したホテルは、琵琶湖に向いて瀬田川右岸沿いに有りました。 朝9時半始発のシャトルバスで、JR線石山駅まで約15分です。 JR山科駅で降りて、気になる京阪京津線山科駅を見てから、地下鉄東西線に乗り蹴上駅に向かいます。 駅で入り口を聞いたはずなのに、蹴上インクラインの入り口を間違えてしまい、趣のある煉瓦製のトンネルを抜けた先を右に上り、7合目くらいの所から入る始末。 これだから、人の話を聞いてないと言われるのかな(笑) でも、時代を感じさせられるトンネルを潜れたし、中の煉瓦の組み方が螺旋状に捩じられている理由が、上を通る重量に対し強度を上げるためだと知ることが出来たのも、僕の旅は何時もの結果オーライの幸先でありました(笑) で、こんな感じでした。 更に軌道上を登り見渡しの良い橋の上から、疎水トンネル出口付近と反転してインクライン方向をそれぞれ撮りました。 下(南禅寺船溜まり)まで歩くつもりでしたが、歩幅に合わない置き石の配列が歩きづらくて、足腰の弱点を考え来た道に戻り南禅寺に向かうことにしました。 道すがら、思いがけずに金地院の前を通りました。 取って付けたようですが……、金地院!??? で、あの金地院でありました! 以心(金地院)崇伝と言えば黒衣の宰相と呼ばれる中でも、方広寺鍾銘事件で一部に悪いイメージがありますが、小生のご先祖が一色氏に縁があると父から聞いたことが有りありまして、崇伝がその出自となるとやはり物書きを自称する性とでも申しましょうか、若干意見を述べたくなるのです。 崇伝は、武家諸法度・禁中並公家諸法度などの徳川法令の根幹に関わった人と聞き及びますし、文政・行政に長けた人であってっても、決して謀略家肌ではないと思うのです。 片桐且元に対する詰問も、浪人衆の大阪城内抱え込みに関するものが主で、鍾銘文の「国家安康」(家康の文字を分断する)と「君臣豊楽」(豊臣家の繁栄を願う)に付いては、お相伴程度の扱いだったとされる向きもあります。 つまり、何でもよい言い掛かりに崇伝が深く関わったとするより、本多正純と調査を担当したものの、鍾銘文の事は後から知らされたとされる説がの方は収まりがよいと思うのです。 寧ろ役割として、智謀家の本多親子(正信・正純)が駒を動かし、大阪方へあらゆる言い掛かりを画策し、また家康自身の希望もあったとして、鍾銘文に付いては南光坊天海や林道春とする説に小生も賛成します。 池波正太郎さんの真田太平記では、鍾銘文に言い掛かりを付けたのは幕府儒官・林道春(羅山)とされておりました。 となると、三谷幸喜・真田丸で方広寺鍾銘文事件はどのように描かれるか、今から興味のあるところです。 背景として……。 大坂方としては家康と秀頼の二条城会見後、徳川の顔を立てたのだからそれで安泰としていたのでしょうけれど、この時期徳川家が幕府将軍家として盤石であっても、巨大大阪城のままでは禍根を残すとするのもある意味当然であったことでありましょう。 司馬遼太郎さんが作家としての目から淀殿に付いて、閨の事以外に取り上げるところが特に無い人などと確か書かれておられました。 清須会議で有名な織田家の嫡系秀信(三法師)でさえ、関ケ原で西軍に付き戦った事を考えれば、豊臣家は存続のために三条件(秀頼が江戸へ参勤するか。淀殿を江戸住まいとするか。他国への国替えか)の一つを呑むべきで、時勢を弁える態度があれば家康も、秀頼を死に追いやるつもりなど無かったはずと思うのです。 大阪城に残ろうとするなら徳川との姻戚関係を更に深め、せめて前田家のようにすれば国替えも強いられることも無く、その後外濠を埋められることが有るにせよ、高家として遇され豊臣は残された可能性は人間家康を考えれば高いと思えます。 決して淀殿が無能だというのでは有りませんが、家康との関係の差こそ有れ、前田家芳春院(お松の方)の例もあることだし……。けど、主従関係の逆転となればそう簡単ではない事も分かるような……。 歴史に “もし” は有りませんが…、でなければ真田丸も無くなりますしね。 何だか、歴史好きが昂じた酔狂話しになり恐縮です。 大変失礼しました。 で、崇伝も住職を務めた南禅寺の山門に着きました。 往来の中から “絶景かな、絶景かな 、春の宵は値千両~” を話ながら帰る人もちらほら。回廊に登られ四方を俯瞰してか、気分は最高のようです。 このセリフは石川五右衛門ですが、傍に永観堂など東山の高台に位置しますから、この時期ならさぞかしの眺めでありましょう。 五右衛門と言えば…… 「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」 の辞世でしたね。 そして、境内にある疎水水路閣を眺めます。 南禅寺水路閣の年を経た重なりは、100年も500年でも大した差を無くすものか、お寺の境内にすっかり馴染んで貫禄さえ感じます。 木々の葉は降りて地を肥やし、絶えぬ水の流れは音を響かせ、人の営みの庭と交わるこの一時に誘われ身を委ねれば、我が眼裏は時も季節も超えて無限悠久を見ているかのようなのです。 今に在り、過去へも未来へも、気持ち(感性)だけは行けそうになりました……。 人間一人の生は短いけれど、平和であればこそ見られる美しきこの眺めは、1200年の時の刻みの中にあり、時の巡り合わせの幸運だけでない事を、これから先に祈りたいものです。 また僕に生まれ変りがあるものなら、次も日本人で有りたいし、しかも平和な世の中で電車の運転手になり、傍ら小説や歌を綴るつもりなのですから。 以前ブログ(2014.10月、若き日を訪ねて 平泉・中尊寺)に書きましたが、今こうして詠み歌を続けますのも、次の生まれ変わりの潜在能力を高めるためと早飲み込みしているからであります(笑) 「折角生まれ変わっても、君の間抜け病が治らなければ、その潜在能力に気が付ないままかもね。それと日本人だって!? 山葵と漬物食べられないに、よく言うよ」……と、 内なる声がまた騒ぎます。 クゥー、弱点を全て握られている! 当たり前か!?……???(笑) |