⇒ 保管No-60 bakuのブログ 旅の道草(0025) 2015.11月の旅から・・・京都(3)三千院 (ameblo 2016.021.12 掲載) (掲載日:2016.02.11) 2015.11月の旅から… 京都(3)出町柳から大原・三千院 銀閣(慈照寺)から叡電出町柳駅までバスで移動しました。 叡電に乗るのは3年振りかな。その前に丁度昼時だったので、駅前の鉄板焼き店で昼定食の生姜焼きを食べました。目の前の調理なので香ばしさが食欲をそそり中々美味しかったです。 運よく観光列車 “きらら号” に乗車できましたが、写真を撮っている間に満席になり展望席に座れませんでした。 今回は、鞍馬方面ではなく八瀬方面なのでこの宝が池駅で乗り換えし、きらら号を見送ります。 叡電八瀬駅へ到着です。 東京から奥の、奥座敷に住まいする今の僕にとって、こういう環境はむしろ身近に感じられ、日常の中にいるみたいで寛げます。 京都と山梨(大月)じゃ大違い!? ですって…… んなぁことはない。都には “おお月さま” が、好くお似合いでしょう(笑) 乗り継ぎの大原行きのバスの時間に合わせて、少し辺りを散歩しました。 時間通りに来ないと聞いておりましたが、来たと思って1枚撮ったら回送で、結局待ち時間にすると約2本分遅れでようやくバスに乗ることが出来ました。 バスは超満員で大原に20分くらいで着きましたが、広く収容人数が確保されたバス停も、すでに帰りの客で溢れんばかりでありました。 帰りが恐ろしい……トホホ。 大原・三千院に来たのは数十年振り……。 でも雰囲気は何となく覚えていて、懐かし場所へ帰って来たような気分になりました。 以前の来た時は、仲間4人で東尋坊・天橋立を回りなんとなく、永六輔・いずみたくコンビの歌詞とリズムに誘われてここに来たわけですけど、歳を取ったせいか登りの参道が長く感じました。 思い出話しは、その時の旅の途中の事になります…… 確か僕の希望で舞鶴の祖母の実家を訪ね、父が慕う大叔父に会ったのです。 大叔父は初対面の僕が会いに来た事を大層喜んでくれて、“さぁー、家に上がれ”と言ってくれたのですが、父の近況など少し話をしてから車に友達を待たせたままの理由を言い辞そうとしたところ、一旦家の中に戻られてから僕の後を追って来て餞別をくれたのです。 その時大叔父から、“マーちゃん(父の愛称らしいです)によろしくな” と言付けをもらったものですから、旅を終え家に戻りその話を父に話しましたら、父は“そうか、叔父貴が喜んでくれたか” と懐かしそうに僕が大叔父を訪ねたことをいたく喜んでくれものでした。 何だかその時の親父の顔と、側で微笑む母の顔が思い出されてしまいます。 それから数年後に父が亡くなり、また母は大震災の年に他界しましたので、この記憶にはとても懐さがあります。もっともその時貧乏会社員だった僕にとって、大叔父さんに貰った1万円の方がすごく嬉しかったけど(笑) 今となっては父との間に確執が有ったのか無かったのか曖昧となりましたが、どうやらこの記憶はきっと親子和解後であった事でありましょう。 葉を落とす度に木々が年輪を刻み、人知れずその肌に自然の厳しさや恵みに触れた模様を重ね着していくように、季節に冬があっても人も歳をふれば逞しくかつ受け入れる気持ちが育ち、 “ありがとう” の言葉を生きる事に捧げられる時が来るように思うのです。ひたすら生きてさえいれば良いのだと…… 小生の場合もようやく開かれそうな扉の先の景色が、少しだけ見えてきたのかも知れません……。感謝。 以降、多摩と舞鶴でしたから僕も父も大叔父に会うことは有りませんでしたが、大好きだった祖母の弟の大叔父様ですから、今でも胸の中にちゃんといらっしゃいます。 もっとも、こんな茶化し好きの気儘者が縁者だったと分かっても、あの優しい微笑みで見守ってくださるだろうか……(笑) 言ったそばから……。では気分をガラッと変えて、ここで中段の余興の始まり、始まり…… この部屋は確か見覚えが有るような……? 今回は中に入れませんでしたが当時は自由に入れたものか、はたまた宿泊した旅館の床の間を背にしたものか、若かった僕は調子に乗り何と罰当たりにも胡坐を組み、仏様ポーズで写真撮りをした記憶があるのです。 気の合う仲間4人旅の若気の至りとは申せ、今考えるとよく出来たなと我ながら呆れます。 今となってはどこで撮ったとうい確証も有りませんが、思い出すたび恥ずかしい記憶の1枚であるようです。 “ 今見ると恥ずかしい写真!? ” …… このフレーズで僕が何を言い出すのか、歴史好きの方にはもう見当が付いてしまっていますね。(※三方が原の戦いで武田軍に散々な目にあい、家康は恐怖のあまり脱糞し、命辛々浜松城に逃げ帰った時、肖像画を描かせ教訓としました) ではここから先、ちょっと脳内両派の言い合いにして、笑い話的表現を試みてみます…… 「君さ、あの家康だって三方ヶ原の負け戦で…とでも言いたいの!? あのね、君の場合は単なる悪ふざけの絵面で、教訓でもなんでもないから!!」 「ちょっと頭をかすめた事で、それほど言いますか!?」 「だからさぁー、君の場合そこが問題なんだよなー ……」 「 “恥ずかしい” のキーワードで過去の集積データーが、判断以前に抽出する情報だからしょうがないだろう! 出物腫れ物所選ばず。 あっ、ちょっと違ったか!? けど、誰の短編小説だったかな……。印象は実際より創造性で優るとしているし、それはそれで良くないか」 「あっ、そう。でも質の問題が残るだろう。だから君の場合は特に、人前に出るときは脳内整理してからにしてね」 「えっ、こちらに丸投げかい……」 「何を仰いますか、慌てなさんな。だから、こうして親身に意見しているでしょ。ほんに君は分からん人」 「そう冷静沈着に言わないでくれよ。何だか空しくなるし、引っ込み思案になりそうだ」 「まぁーまぁー、そう気を落とさずに。これからも一緒に頑張ろう……」 で、やがて二つは一つの ”お一人様” の具合とあいなりましても、これでは脳内が騒々しくてたまりません(笑) ところで、そもそもこの話は初めから本当なの…… そうですなぁー。何せ、記憶も遠い日の事ございますからな。 そう言えば、A君は座ると両の手の平で印相らしきものを組む癖がございましたし……。いやB君の方も胡坐を組むとじっと動かなくなり、その姿はまるで仏像のようでしたからからな。 えっ、この私でございますか!? はい、それはこの通りのお調子者でございますよ。 さて、どう申しましょうか、そうですなぁー …… 過ぎた日の事はどこぞにある “藪の中” 、みたいな気がするのでございます。 おいおい、落語のさげみたいに引き合いに出すとは、誰か様にカンカンに怒られますよ。 懲りないね……? ―― 全くだ! おしまい。 さて、園内を歩きます…… 受付でビニール袋を渡され下足を持ち運ぶ面倒くささは、入り口が別に有る池泉回遊式庭園に出るためでした。 次第に気分も自然に入れ替わり、順路に沿って進みます。 三千院の前身は政所(飛び領地の荘務かな?)として、声明道場の役割も担っていたそうで、本坊は梨本・梶井門跡を称して古くは叡山内や坂本などにあり、あの大塔宮護良親王も歴代門主に連なるとなれば、なお一層の興味を惹かれてしまいました。 癖を覚えた道草は留まることを知らず、三千院と無関係にどんどん進みます…… 鎌倉幕府滅亡後、護良親王は征夷大将軍となり足利尊氏の宿敵として権勢を握りますが、天皇の寵姫阿野̚廉子と対立し、尊氏暗殺計画や配下の街の置ける横暴な振る舞い、更に皇位簒奪の嫌疑までかけられて失脚してしまいます。 宮の身柄は足利尊氏(この時、鎮守府将軍)に預けられ、弟の足利直義が固める鎌倉将軍府の二階堂ヶ谷東光寺(現・鎌倉宮)に幽閉されるのですが、北条高時の子・北条時之による中先代の乱に際し、鎌倉脱出を決めた直義は禍根を残さずとして、将軍で異母弟の成良親王(母=阿野廉子)の命は守りますが、大塔の宮は直義配下の者により暗殺という非常な憂き目の最期を遂げてしまいます。 やがて後醍醐天皇・公家中心の建武の新政に不満を持つ武士団と組みした足利尊氏は、室町幕府の希望を叶え北朝方(持明院統)として、後醍醐天皇派は南朝(大覚寺統)として反目しあい、南北朝の騒乱は3代将軍足利義満の代まで続きます。 結果として大塔宮の危惧した通り足利幕府の世となりました。 無抵抗の状態で命を取られる口惜しさはあるのせよ、聡明な宮の最期の御心の内は巷説とは逆に、大凡を悟り英邁な後醍醐天皇一の皇子として、誇り満ちた生涯であったのではないでしょうか。 鎌倉宮はそう遠くないので、今度行ってみます。 そして…… 小生、戦の世を生きた強者の辞世の中でも、誰を恨むでもなくまた悔やむことなく、生かされ生きたとするものに惹かれますね。 ちなみに、毛利元就軍と厳島の戦いで最期を遂げた、陶隆房(晴賢)の辞世が好きです。 「何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に」 もっとも、永井路子・内館牧子コンビのNHK大河「毛利元就」の脚本が良かったのかもしれませんけど。 ついでですが小泉元総理が有名にした、“上り坂、下り坂、そしてまさか” の3つの坂は、この脚本がオリジナルだそうですよ。 では、今回はここまで。 お付き合い有難う御座いました。 ページトップへ ⇒ |