⇒ 保管No-61 bakuのブログ 旅の道草(0026) 2015.11月の旅から・・・京都(4)旅空の寂光院 (ameblo 2016.02.19 掲載) (掲載日:2016.02.18) 京都(4)大原から京都駅へ 三千院を後にすると帰り道はゆるい下り坂なので、ゆったり目を遊ばせながら参道の風情を楽しむことが出来ました。 そこで、ちょっといいなと思う雰囲気を発見したのです。 坂道と高低差の活用と、樹木と建物が馴染むとでも言いましょうか時間の経過も加わり、その空間の整いに僕はつい見とれてしまい暫くただ立ち尽くすばかとなりました。 ここのほかにも、参道の途中には雰囲気のよい場所が幾つもありました。 大原にはその昔、平清盛の娘で高倉上皇の中宮並びに安徳天皇の母、建礼門院徳子の隠棲所(寂光院)もあり、嵐山・嵯峨野が行楽・別荘地とすれば、この地は出家・隠棲の里でもあったそうです。 話しは、 鹿ヶ谷謀議における院側近の粛正後、急速に後白河法皇と平家との溝が深まり、壇ノ浦・平家滅亡後の事なります…… 後白河法皇が寂光院へ御幸したとき、建礼門院から栄枯盛衰の顛末をわが身に見たとする様をお聞きになり、“あなたは三蔵法師が悟りを開く前に見たとされる六道(天道・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄)を見たのですね。それは有り難いことです” と涙を流されたという件があります。 建礼門院が鞆の浦の海中より引き上げられ都に護送される途中、明石の浦で見た竜宮の夢のお告は、母の二位の尼から “竜畜経” で安徳天皇や平家一門の菩提を弔い頼まれるというものでした。 そして、 花も無い冬構えの御庵跡には、苔や草が供の花に例えられるものか……。 それは六道地蔵となられた(尼僧様の)御心を今に表すかのように、高倉・安徳両帝の菩提はもとより一門の御霊が休める竜宮に向かい、静かに(竜畜経で)お慰めしているかのような……。 どうやら僕は旅時空の垣間見に、何だか不思議な心持に遭遇したようです。 “竜畜経”に付いて……。 平家物語より源平盛衰記に答えを求めた識者の記述があり、須佐能命のヤマタノオロチ退治まで遡る物語性として、また “竜畜経” との辻褄合せとしても興味が持てました。 これは超現実的な話なので、この部分を短編小説に出来たら面白いなと思いました。 この日大原バス停の帰りの人の多さは半端なく、休みながらの歩きも限界近しでしたけど、仕方なくすし詰め状態の京都駅行きバスに乗り込むと、出町柳手前でようやく座ることが出来ました。 休息を得た僕の足も四条大橋が好きなようで、最寄りバス停で降りますと足任せに鴨川を渡り、南座側(写真的には北座?)から街の夕景を眺めるのでした。 京都市内のぶらり歩きをしてみたくなって、 四条通りから新京極通りの賑やかさにつられて、この小路から錦市場に向かいますと、市場通りに向かうように錦天満宮の御社がありました。 毎日が縁日みたいでいい感じですでしたが僕は境内には入らず、気持ちで拝礼し写真を撮らせてもらいました。 ここまでに相当歩いたので疲れもピークでしたが、折角来たのだからか勿体ないという○○根性発揮で、地下鉄烏丸駅まで錦市場を見学しながら歩きました(笑) 京都駅に戻りますと午後6時過ぎで、しかもこの日は11月11日でしたからクリスマスツリーのイルミネーションが有り、普段お一人様が気楽とは申しましてもこういう雰囲気にありますと、確かに一人だけは寂しくなります(笑) 折角ですから、エスカレーターで最上階まで登りました。 正直いますと京都駅ビルは今まで素通りで、ガメラⅢの映画の映像でしか見たことが有りませんでした(笑) 11階屋上まで段状に上がれる空間の造りには驚かされましたし、足元の下は伊勢丹の売り場なんですね。 この日と次の日も、写真の左右に明かりが見えるフロアのレストラン街で夕食を取ることになりました。 この日の歩数計は2万歩以上だったと思います。 既に右足は痺れ左膝の腱も痛みますので、極力下りはエレベーター・エスカレーターを使いました(笑) では、今回はここまで。 お付き合い有難う御座いました。 ページトップへ ⇒ |