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保管No-67

           bakuのブログ 旅の道草(0029)
出雲・松江 塩見縄手を歩く                   (ameblo 2016.06.03 掲載)
(掲載日:2016.06.01)


松江へ
久しぶりに旅行に出掛けました。
乗り継ぎは高尾、明大前、渋谷、品川、羽田のルートを今回使いました。

          
京王線明大前駅上りホーム最後尾から、都営地下鉄新宿線車両乗り入れ橋本行を撮ります。この位置からホーム全体を見るとウン十年前のイメージも何となく残っています。

          

下高井戸方面に向けて撮りますと、多摩方面から下高井戸経由で玉電沿線に通学していた頃を思い出します。 帰り、わざわざ一駅戻りこの明大前から当時大好きだった5000系特急に乗った記憶が懐かしい。
(※5000系の囲み写真はネット上からお借りしました。当時の桜上水か、高幡不動上りホームかな)

   
井の頭線渋谷駅が神泉側に移動して地下駅になっていたんですね。
僕の知っている渋谷は、井の頭線ホームの右隣り玉電(廃線後は東急バス発着所)で、その右上が地下鉄銀座線車庫の記憶ですから、あれからウン十年経ち変わっているだろうと思っていたけど、降りてビックリ! でもなんとか方向感覚だけは無事のようです。そして、京急品川駅から羽田へ。


   

出雲空港でパーフェクトチケット(市営バス・一畑電鉄バス電車、3日間乗り放題。由志園、足立美術館ほか資料館など割引特典付)を購入。 早速、一畑シャトルバスで松江駅に移動しました。

   

ホテルにチェックイン後、宍道湖夕日スポット巡りの予定でしたが、あいにくの曇り空で、急遽松江城の周りの散策に切り替えました。
小泉八雲記念館まで行って、堀川沿いを塩見縄手、松江城大手門に戻りながら歩くとよいという、運転手さんのアドバイスの通りにしてみました。
ポイントでの観光案内は松江出身、佐野史郎さんの録音車内放送でした。 また、竹内まりあさんもご当地出身だとか。駅・僕の街へ・元気を出して・とか、ウォークマンを耳にしながらの散策です。

    
小泉八雲記念館は休館中でした。「貉」とか「耳無芳一の話し」が頭に浮びますが、松江城にちなんだ「人柱にされた娘の話し」という作品もあるそうです。

   

実は今回小生の詠み歌も第五十作節目に当たります。 自己流ながら書式を作り百作を目標に始めのですが、どうにか中間点までたどり着くことができました。今回もご覧いただき誠に有難うございます。

では人柱伝説に付いて、歴史秘話ヒストリアで紹介された話に加筆して、またご当地の “縁雫(えにしずく” と言う言葉を使わせて頂き、今回の詠み歌に繋げさせて頂きます。

関ケ原の合戦後、出雲・隠岐二十四万石に封じられ、月山富田城に入った堀尾吉晴・忠氏親子は、松江を新たな領国の首都として築城を計画します。
築城の場所に付いて親子に意見の対立が有りましたが、計画中に忠氏が蛇に噛まれ亡くなり、吉晴は孫の忠晴の後見として忠氏の主張した亀田山に築城を決意します。

堀尾忠氏に付いて、こんなエピソードがあります。忠氏は父吉晴が人情事件で負傷したため、名代として会津征伐に参加し、小山評定に妙案を持って挑みます。一案の誰よりも先に家康に従うという宣言を、黒田長政の智謀で福島正則に取られてしまいますが、忠氏にはまだ腹案がありました。そこで言い出すタイミングを見計らっていると、山内一豊に我が城遠州掛川城を内府様(徳川家康)に献上いたしますと、またしても先に言われてしまうのです。忠氏は、人のよさそうな一豊を信じてうっかりこの領地・城献上策を漏らしていたのです。まさかあの人がと悔やんでも後の祭りで、忠氏も含め東海道筋の大名はこぞってこれに従う形となり、家康はこれをいたく喜んだのは言うまでもありません。忠氏は関ケ原で一所懸命働き出雲・隠岐二十四万石、一豊は大した功もなく土佐二十四万石に加増移封されます。忠氏にはこんなトホホな話しがありました。

そして……
そもそも始まりは、堀尾吉晴が松江城を築いたとき、本丸を造る場所近くに有ったご神木を切った事に端を発します。
突然石垣が崩れてしまう事故が相次ぎ、原因を調べさせると錆びた槍の貫通した骸骨が発見されたので、祠を造りお祭りしたのですが一向に収まりません。
そこで当時の難工事の風習で有りましょうか、吉晴は盆踊りを催し小鶴という踊り上手で美しい娘を人柱する事で城は完成させますが、この頃から城下で盆踊りをするとお城の石垣が揺れたり、天守で女性のすすり泣く声が聞こえたり怪現象が起こります。
吉晴は城の完成直後に亡くなり忠晴も若くして死に、堀尾家は三代で跡継ぎが無く断絶してしいます。
次に当地に所縁のある京極氏(一族に尼子氏)が領主となりますが、こちらも突然の病死で世継ぎが無く治世三年一代限りとなり、明治まで松江藩を治めるは結城秀康(家康の次男)の三男松平直政の家系となります。
その直正が荒れ果てた天守に登ると白装束の女性が現れて、この城は私のものだと言うので、直政は思わずこの城をつかわすと言ってしまいますが、献上品のコノシロという魚を三宝にのせて捧げると、翌日天守近くの櫓のそばに空の三宝だけが転がっていて、その後怪現象はぴたりと止まったそうです。
以降その櫓で御霊を鎮める御祈祷を月に一回続けたと言われるのが、後にコノシロ櫓と言われる祈祷櫓だそうです。
語呂合わせの洒落で片が付いたみたいですが、何であれ約束を反故にしない殿様の態度に、或いはコノシロが好物だったものか、小鶴さんの霊も頓智の利いた殿様に 縁雫(えにしずく
で怨念を堀川流しの縁として、何か納まりを見つけたものでしょうか。
小鶴さんは元々は普通の娘さんですから、恨み続ける事の不幸は分かっていて、これを切っ掛けとしてむしろ小鶴さんは救われたのかも知れません。
こうして松江・松平家は、祟られることもなく明治までお家は続き、お城は維新の民間払い下げの危機に直面しますが、市民有志に助で天守だけが現在に残ったとうのも、何か直政公と小鶴さんの浅からぬ 縁雫(えにしずく
を感じてなりません。
ちなみに松江城下で盆踊りが無いのは、人柱になった娘さんへの恐れと遠慮のためだとか……。



今回一の歌は、川柳に付け句して狂歌風に詠みました。
また松江では 縁雫(えにしず)く” と言う言葉が、地元の女子高校生により、雨の多い松江に因んで作られたそうです。
怨念を解かれた小鶴さんの魂も、縁雫 という言葉をきっと気に入っていることでしょう。 なので、小鶴伝説を含め人の思いの繋がりに、雨多くても露の柔らかき心の縁と準えて、縁雫 を松江の枕詞としてちゃっかり詠んじゃいました。
そう言えばご当地に、八雲立つ出雲の・・・、という最古の和歌がありましたね。
若干恐る恐る……でも、やっちゃいました。


   
塩見縄手の武家屋敷長屋門です。

   
堀川遊覧船です。これをテレビで見て松江に行きたいと思ったわけです。

   
行きはバスの車窓から眺め、帰りは風情あるお堀端を歩いて、大手にある遊覧船の船着き場まで戻ります。

         
この日最後の散策ポイントは県庁入り口前です。
バスの路線図が整理できていないので、この日はカラコロ工房前の停留所から松江駅に戻りました。
後日、何度も乗るうちに県庁前の停留場は一ケ所で、上下線共有で有る事を、レイクラインバスと松江駅・しんじ温泉駅間の系統で確認できました。


では、今回はここまで。
お付き合い有難う御座いました。



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