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           桑原縛逐『詠み歌集』のページへようこそ   


<仲間と一緒! 夏の思い出・宝の山!!>
小屋裏の清水の流れは急斜面に有り、小さな滝の連続だから爆音は芭蕉の句碑の有る田原滝と変わらないほど大きく、CDプレーヤーを大音量で流して麻雀しても両隣から苦情も出ません。
僕の薬(バイアスピリン?)の副作用の雑音も、この音で完全に打ち消されて心地よい子守唄となり、また仲間達も周りを気にせず騒げるから良いねなどとすっかり皆のお気に入りの場所になっていました。

そうそう
あの頃は皆働き盛りで忙しかったけど
この山小屋で盆休みの2泊3日を過ごすことが
日頃のストレスを一気に解消できる時間でもあり
小屋裏の清水の流れと滝音が体内時計に収り
“また来年も楽しみ”と時を刻むから気持に余裕も出来て
きつい日々の仕事をこなす活力になっていたのかな
“皆でお金出し合って、週末集うログハウスを建てようぜ”なんて
麻雀しながら夢大部分の話で大いに盛り上がっていた
愉快な仲間達と一緒を過た夏の日の思い出
< 夏の旅空・京都(出町柳~鞍馬)>
 
青い空に白い雲。鴨川の流れと橋を行き交う人。子供の日の夏休みの様な、それでいてどこか感傷的で…、この旅の空にもそんな気分が有りました…。

あの日も夏の青空だった。白く浮かぶ雲は道を行き交う人たち上にあった。雲の行方は気儘で、まるで旅空の僕の気分のようだ。

道で行き交う人は、誰一人知らないけどそれが良い。この青空の下。構えの無い顔になれるのが嬉しくて。


きっと何かを尋ねたら、親切に教えてくれるだろう。もっとも話しかける事など無い僕なのに、なんだか気持ちが柔らになりとても心地よい。


だから僕はあの白い雲になって、旅の空に同期するこだまを感じていたい。垣根のない穏やかさを遠見にするのが好きだから。いつまでも…どこまでも……。

< 京都の旅(朝散歩boku時間)>
 

空は明るさを増しつつ、陽光は既に町家の屋根に届いている。通りはまだ明けきらず行き交う人も無く、蝉鳴けどなお静寂の漂いは僕の存在さえ風にする。

森の木々もまたそよそよと、朝の気配に同化して。気持ちの良い朝だね……。優しく囁いていた。

家の朝も始まっていて…、お勝手で母さんの味噌汁の湯気がたっている。いい匂……小さな子供が目を覚ました。父さんは新聞を読みながら団欒の朝餉を待っている。

お早う…さぁ~ 一日が始まるよ。一片の風は町並みの体温を感じている。夜と昼の間を繋ぐ朝に。僕は懐かしく愛おしい匂いをその風に感じた。
一年中の殆ど今でも…ぼぉーとしいてる僕なんですが…(笑)
早朝の京都東山の町家を歩きながら、ふと子供の頃過ごした夏の中野区上町を思い出しました。
この涼しげで目を覚ましきれない生暖かい微風は、あの日の朝のラジオ体操に行く時間にも有ったように思えて、往きの眠くてぼぉーとした頭で会場のお伊勢の宮までの通い道を感じたのです。
ラジオ体操も終わり、すっきり目の覚めた帰り道は、もう母の作る“朝ご飯”特にお味噌汁が待ち遠しくて…
そう思うと何だか一日の始まりが嬉しくなってきてくるのです。 幸せってほんの些細なことでも、それが思い出でも感じるものなんですね……


< 北軽井沢(ホテルグリーンプラザ軽井沢)>

2015.08.31)友人達と塩沢湖と鬼押し出しに寄ってから、北軽井沢のリゾートホテルに泊まりました。

外観から一見のどかで良い日を選んだと思ったのですが、ホテル内に入るとフロントは大混雑。
土産物店の有るロビー付近の人の多さに、日にち選びから予めの予想は土壇場で覆されてしまいました。

日曜日の宿泊は空いていると同等に、8月の最終日を捉えていたわけです。
初秋の侘びをあじわうつもりでした…何てね(笑)
もっとも駐車場はほぼ満車でしたけどね。
でもホテル内の喧騒には、旅先を楽しむ人々の日常を離れた高揚感が有るから、気分も次第に馴染み、むしろわくわくするまでの気持ちの変化を感じられたのも一興でありました。
 
リゾートホテルの中は大賑わい
仲間や家族そして恋人達の人生の楽しみの一コマがそこにある僕の通り過ぎた幸せの過去たちの面影新たな憧れも投影されて心が満たされてゆく

遠い日に失ったあの子の笑顔さえ勢い懐に飛び込んできて切ないよりむしろ輝いているもう会えなくなった人たちと過ごした最良の時もここに集まる人の幸せ顔に垣間見た気がした

友達が葉一片の紅葉を昨日塩沢湖で見つけた僕も今朝の散歩道で小さな秋を見つけた昨日今日明日四季のリズムが壊れかけ狂った温度差で季節が季節を悩んでいた着合わす衣をどうしょうかと朝惑いをしているかのようにでもことさら不満でもないようだ何が有っても生きる事を続ければよしとしているふうがある

僕は既に長い時を過ごした生きることを少し理解できてもなお迷いは有る僕は日常を離れて楽しむ気負いのある場所にこの身を置いてなくしたものと生きる今の交差を温め眺めている存在すると言うより思いと言う領域で


< 北軽井沢(ホテルグリーンプラザ軽井沢)>
睡鳩荘・すいきゅうそう(旧朝吹山荘)を草むらから望みます。
自分で言うのも何ですが、写真の構図お気に入りなんです。
この一コマの切り取り絵に想像する憧れが僕のものであればと。
例えば…それは秘密です(笑)
日常を離れて目に入る旅情風景の印象に、想像や憧れが制限無く自在に作られて、非現実を間近の陶酔に変える作用が旅にもあるように感じるのです。
旅を終え現実に前すると、しばらく気が抜けて普段に戻るのに時間が掛かるのはそせいでしょうか。
もっとも、僕の大好きな映画「男はつらいよ」寅やのおばちゃんは、旅から帰ると  “やっぱり家が一番だね“と言いますけど
僕は気儘人間だから旅先の気疲れは殆どないけど、それでも家が一番と思う時もあります(笑)
それにしても、閑寂と人気(ひとけ)の調和がいいです。自然を生かし且つ手入れされた景観美は庭園特有のもですが、金沢兼六園の由
来の  六勝の内3つ、幽邃ゆうすい(閑寂と奥深さ)・人力(人の関わり)・ 水泉(池や 滝)が当て嵌まる趣と言いたいですね。こちらは洋風ですけど。
これに、宏大・蒼古・眺望を備える兼六園とは……
実はまだ行ったことがなく、時代も違うし憧ればっかり大きくなって。次の旅は北陸新幹線で金沢にしょう…いや、初秋の京都もいいかな。大袈裟な言い方ですが風景って、全体と言うより、切り取りに“いいね”をしたくなることがありますね。
“いいね”なんて、なんかアメブロみたいですけど(笑)
そうそう去年の秋、京都嵯峨野の天龍寺大方丈書院の間から、軒先を四角切の額縁に見立て、通の気分で曹源池庭園の紅葉を自分絵の切り取りを見た時みたいに……

< 軽井沢(鬼押し出し園)>
見渡せば奇岩の屹立が、歩きに合わせた角度と光の加減により、
獅子・獣やら武者・行者風まで、まるで岩が役者の出で立ちに変化して、
”これで、よろしいか!?”と世を問いつつ、
凛と見得切りしている様に目に入ります。


色を付け始めた草木が引き立て桟敷の様に、
或は遠見に化粧袴を身に纏い傾く役者岩の様に、
夢幻(ゆめまぼろし)も現(うつつ)の混在世界、
ここならではの、念の息づく(超)自然造詣美を眺めでありました。

この旅は、塩沢湖から鬼押し出しまで若き一日をなぞる目的も有りました。傍らに、もう会えなくなってしまった悪戯好きのT君が居るようで、

“俺はここだ、見つけてみろよ”と、
秋風を使い岩原の薄をあちらこら揺らしては、悪戯っぽい目を輝かせて“かくれんぼ”を仕掛けているような……
僕はそんなふうに感じ、彼の居た多くの旅の思い出を三人三様に口にしては思い出し、彼が一緒にいる4人気分を楽しんだのです。
それにしても、この長い道程をよく自転車で来たもんだと、若き日の自分達の力強さに感心するばかりでした。レンタサイクルを偶然見つけて、その場で決める何時もの僕等の旅仕様、“行き当たりばったり”を楽しむ…でしたから(笑)輝いている時を振り返る。
仲間の居る自分の“生かされ生る”を改めて感じる旅となりました。感謝します。


< 金沢(電車旅と茶屋町風情)>
茶屋町の景観はさることながら、卯辰山のなだらかに下る丘陵の突端の森の繁りが、扇を広げた屏風のように、また秋涼の彩りを添えて、“茶屋街の昼の顔“の印象を引き立ていました。

夜になれば電灯色の淡い光が、また幻想的な空間に趣を変えるのでしょうね…

見返り柳の前に、茶屋様式の町家…“金澤しつらえ”というお店がありました。
(内部は工芸品の展示と2階がカフェの作りにリノベートされ、時代に合わせて水茶屋風に変身ですね)
外観は色鮮やかに化粧直ししたばかりだそうで、待合茶屋の雰囲気は、お座敷遊びに縁のない私の旅の感受性にも十分に語り掛けてくれます。
然もすれば…道を挟んで左斜向かいの検番(東茶屋街組合)から、
ピンと張り詰めた、しかもどこか、か細い三味線の音が私の歩みに囁きかけ、しかもどこか、か細い三味線の音が私の歩みに囁きかけ、何処からともなく吹く秋風の調子をとっては、 側の“見返り柳”を、形よくしなやかな舞を囃し立て揺らしているようで、何とも艶やかな、気が付けば、私にとって“たら・れば”の、しかも風流な、 非日常の爽秋の気分がそこありました。

< 兼六園・蓮池門から瓢池、そして幽邃の中を歩いて>
天高き秋の空は、石川門ではどこまでも青く、
瓢池ではその輝きを少し和らげ、
この深淵の森を歩けば木漏れ日となって、
ふと気が付けば、動的なものから静的なものへの変化を、
ごく自然に心地よく感じさせてくれる。
そういえば、動は一時的な感情の起伏。
静こそ理と説く学びも確かあったような……!?
でも、両方あるから人生は楽しいし、
同時に受け入れてこそ融和が生まれ、
また、対峙・相対を受け入れすぎると
表裏の区別がしにくくなり、そう僕みたいに優柔不断になる。

足利尊氏が好きな理由も、何かその辺にありそう…
保科正之は尊敬する人物の中の一人として。
あれも良しこれも良しでは、結局考えが定まりませぬ(笑)
< 2015年10月7日・高岡にて>


堀に架かる橋に
小舟が繋がれ暇を持て余していた小高い森から秋の風が吹き下し船の幟を揺らしてその無聊を慰めている

風よ、君の旅はどんなだろう無口な君の機嫌はそれとなく分かる何時だって空の雲と連れ立って、 時には僕の旅と一緒になるからさ

風よ、水と木は五行の例えににあれども君にはない。それでも、物でない風や事象の為す業は物でない人の心に大きく関わり、 時に優しく時に厳しく傍らで存在を現す

万物の構成それ有っての事も気との並立人気のない昼前時の穏やかさ。 風は僕に、八百万のものたちの時の広がりを見せてくれた
< 2015年10月6日・兼六園(2)霞ヶ池~>

虹橋付近から、霞ヶ池に“ことじ灯篭”を入れて撮りました。何でも琴の音の高低を調整する琴柱(ことじ)に似ているところか、そう呼ばれているそうです。
手前にある虹橋を入れて撮るのが定番らしいのですが、その橋は人の往来が絶えず、背景が映りにくいためこの位置にしてみました。

時に擬人化して物を見てしまう自分がいて、立ち続けるその姿がもしわが身に自由が無かったらと例えれば、細々ながら気儘に暮らせているだけで、有り難いとそう思うのです。

また写真とは不思議なもので、人通りの途切れた景色が旨くフレームに収まると、自分だけがそこに居たような錯覚を起こしてしまいます(笑)
と言うより、撮りたいものを映しのだから、その世界感だけが残るのがむしろ当然と言うべきかも知れませんね。
< 2015年10月7日・富山にて>

海を見るのは久しぶりだなぁ……。去年の夏、江の島から由比ヶ浜まで歩いた時以来かな。

海辺の風は強く、遠く富山湾の防波堤の先で、波が砕けて白い水飛沫を上げておりました。僕は若い頃シュノーケリングに夢中だったから、毎年のように夏場は城ケ島や観音崎へ出掛けていたのに、最近すっかり水の淀みが苦手になってしまって……。また、恐れもなく沖合まで平気で泳いで出ていたのに、今こうして水際に立つと、海の広さ、深さがとても怖く感じてしまう。

猛る白き飛沫が群青に映え、確かに有った我が青春からの声が聴こえて……

それはそれとして、港に停泊中の船なんですが、強い風と波に揺すられて、千鳥足のおっさんの様に滑稽に、いや失礼、ユーモラス見えるのは何故!?(あんたも同類項みたいなもんだから!! と、もう一人の自分が言いました…笑)

< 2015年11月10日奈良・東大寺にて>
松永・三好の東大寺合戦で焼失後、江戸時代元禄期に再建されたもので、大仏さんのお顔がより和風になられたとか……。また、天平時代からのものは、お膝などが部分的に残っているそうです。
さて、奈良の大仏様は、平安末期、戦国2度の戦火にあい、それぞれ鎌倉・江戸に再建されているとすると……。ならば “仏の顔も3度” と言うし 、せめて我が国にくらいは戦なき打ち止めの世が続くと願いたいものです。

仏を拝顔する一人ひとりは穏やかなのに、組織(会社・国家)の人となれば話は別、引きずり引きずられるのがむしろ人情。いわんや、世界ともなれば争いの種(宗教・民族。そして恨みの連鎖)は尽く暇もない。
 
“急がば回れ” 、TPPなど経済圏の結びつきを強くして武力衝突の無い国家関係を構築して、先ず戦争の無い世の中を積極的に築くことを大事としつつ、争いのもとの一つ、貧困の無い世の中を望みたいものです。
また言ってしまいました。
僕のブログを読んで下さる方には、3度目となれば “耳たこ” ですね……。と言うより、呆れられたかな(笑)
でも、方便でも世界平和を一歩進められるのなら、それに越した事はないと思えるし。
歳を季節に例えれば、何だか落ち葉の頃の一人思いでもあるような……

< 謹賀新年 2016 newyear>
青い鳥で始まる詠み歌は、ブログやスライドには…
青い鳥 見つけたのかな 初えくぼ 手中空なら 夢でいっぱい
と詠みましたが……
しかしこちら方が、江戸狂歌の大田南畝風に詠めたという充足感が有りまして、また当人も気に入っておりますので、ここにご紹介させて頂きました。
まぁ…ザックリ言うと、とかく夢などと言うものは手にするよりも、恋しさ、憧れを抱くうちが花かなぁーと感じたわけです。
手に入れて愛着を持ち大事にしているつもりでも、ふと気が付くと何か以前と違うと感じたりて……
そう…だからこそ、夢に向かい情熱を燃やしていた頃が無性に恋しくなるのでしょう。
小生にすれば、大田南畝に一歩近づけたとか、一つくらい世間に親しまれるような歌を詠みたいとか、そんな夢に向かっている時こそが、一番いいのかも知れませんね。
「安心しなさい。君は一生夢を見続けられるから」
と、内なるもう一人の自分に言われました……、残念!
じゃなくて、嬉しい! だった!?……???(笑)
< 2015年11月10日奈良・興福寺にて>
興福寺の五重塔から西に進む道の先には静かに佇む南円堂と、短日の時を惜しむかのような夕日の饗宴がありました。

とっておきの時間とは有りますものか!?

晩秋の或いは初冬の古の道の先に、薄茜さすの光に導かれるように足を進めれば、
荘厳な雰囲気の中で、何か穏やかな懐の深さに抱かれたような……

今は亡き父母や祖母、そして自分を支えてくれる人達に包まれているような時の奥行きが、この日の夕間詰めに見たような気がします。


仏心の慈愛に導かれるとは、このような気持ちになる事なのでしょうか。

訳など無く、ただ平穏無事が約束された心持と言うか、まるで知己の人達が自分の周りで穏やかに微笑んでいて、安堵の広がりに満ちているかのようなのです。

この旅に、この日この時の巡り合わせに、有難うと言いたいです。

< 2016年1月6日 久しぶりの高尾山>
冬季の外出は……
小生、冬季は寒さが苦手で特に出不精なります。だから毎回、外出間際 “えい!” と気合を入れて出発するのです。
しかし不思議なもので、一度外に出てしまえば耳目が外界に刺激されると言いますか、あれこれ思いが湧き出し気分も勝手にhighになるのです。
それもこれも毎度 “分かっちゃいるけど” 出掛ける前の煩悶(自己内問答)でありまして、この日も既に寒さもすっかり忘れ、年の始まりの一歩の新たかさみたいなものも感じつつ、友人とオヤジギャクの応酬ですっかり上機嫌なのであります。
思い出したかのようですが、この日は7年振りの初詣でやはり新年を迎える時期として、寒空がふさわしく思える一日ではありました。
“10日の新年会でまた会おう”
高尾で別れ友人は東方向へ、小生は京都方面に???……。
ええ、まぁーそのー、既に慣れ親しむ西方向のお里へ帰ります!(笑)

4日後の新年会で僕も大いにはしゃがせてもらい、また友人たちの元気な顔が見られて良かったです。
< 京都(1)金地院と南禅寺>
南禅寺境内の水路閣を下から眺めます。
年を経た重なりは、100年も500年でも大した差を無くすものか、お寺の境内にすっかり馴染んで貫禄さえ感じます。
木々の葉は降りて地を肥やし、絶えぬ水の流れは音を響かせ、人の営みの庭と交わるこの一時に誘われ身を委ねれば、我が眼裏は時も季節も超えて無限悠久を見ているかのようなのです。
今に在り、過去へも未来へも、気持ち(感性)だけは行けそうになりました……。
人間一人の生は短いけれど、平和であればこそ見られる美しきこの眺めは、1200年の時の刻みの中にあり、時の巡り合わせの幸運だけでない事を、これから先の世にも祈りたいものです。

また僕に生まれ変りがあるものなら、次も日本人で有りたいし、しかも平和な世の中で電車の運転手になり、傍ら小説や歌を綴るつもりなのですから。
以前ブログ
2014.10月、若き日を訪ねて 平泉・中尊寺)に書きましたが、今こうして詠み歌を続けますのも、次の生まれ変わりの潜在能力を高めるためと早飲み込みしているからであります(笑)
「折角生まれ変わっても、君の間抜け病が治らなければ、その潜在能力に気が付ないままかもね。それと日本人だって!? 山葵と漬物食べられないに、よく言うよ」……と、内なる声がまた騒ぎます。
クゥー、弱点を全て握られている! 当たり前か!?……???(笑)
< 2015.11月の旅・京都(2)哲学の道から銀閣へ>
哲学の道の南禅寺側の入り口に差し掛かり……
この日の予定は銀閣寺、そして大原まで行くつもりでしたので、ちょうど休憩に好い道端の腰かけ石を見つけ座っておりますと、
この日行き交う人も殆ど無いこの道を、一人の旅の人が僕の前を通りかかりざま路傍の桜木に向かい、
「あぁー… 何だ、すっかり葉が落ちてしまっている」と、独り言かまた問いかけなのか定かでありませんでしたが、そう嘆息交じりに呟いたのです。
葉を落とし裸になった桜の木も “旅の人がそんなに惜しんでくれるのなら” と、その惜しみをまた惜しんでいるかのようでありました。
旅の人は人生色々の歳と見受けられましたので、道端の石に座り休息をとる僕は慰めのつもりで、
「ほかに気が長いのも、ちらほら居るみたいですよ」と、答えてみたのです。
しかし旅の人はそれ以上の言葉を発せず、一顧と浅い笑みを残し立ち去りました。
僕も軽く会釈で見送りましたけど、この旅の人、桜並木の紅葉の時期に何か思い出でもあったのかな……
それとも、見た目ぶっきらぼうの僕に “物言うのも儚し” と閉口したのでありましょうか。いずれにしても…この年の初冬は暖かったのに、桜の落葉は早やすぎたみたいです……。そしてこの旅の人の姿は、“人生泣き笑いあり、ただ留まることなし” として、僕の目に映るのでした。

















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 設置 2015.01.30